ブギウギ|水上恒司演・村山愛助のモデル吉本穎右はどんな人?ドラマは美化?

「ブギウギ」水上恒司さん演じる村山愛助は吉本興業の御曹司・吉本穎右(よしもと・えいすけ)です。吉本穎右について、笠置シヅ子との出会いから別れまでまとめました。ドラマでは美化されている??

吉本穎右は「わろてんか」では成田凌さんが演じた隼也役

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目次

吉本興業の吉本穎右とは?

吉本穎右(よしもと えいすけ)は、笠置シヅ子の運命の相手です。

朝ドラ「ブギウギ」では水上恒司さん演じる村山愛助という人物で、趣里さん演じる福來スズ子の相手役となります。

吉本穎右プロフィール

  • 吉本穎右(よしもと えいすけ)
    生まれた時は「泰典」後に「穎右」と改名
  • 生年月日:1923(大正12)年10月26日生まれ
  • 没年:1947年5月19日没(24歳)
  • 年2月13日に39歳
  • 早稲田大学卒業
  • 父:吉本泰三(吉本吉兵衛)1924年(37歳没)
  • 母:吉本せい(1950年60歳没)
    せいの二人の弟(林正之助と東京吉本社長も務めた林弘高)
  • 吉本家の長男(泰之助)は1918年に幼少で無くなっているため、次男だが家督を当主

ドラマ「ブギウギ」では?

史実ドラマ「ブギウギ」俳優
笠置シヅ子(かさぎ しづこ)福來スズ子(ふくらい すずこ)趣里(しゅり)
吉本穎右(よしもと えいすけ)村山愛助(むらやま あいすけ)水上恒司( みずかみ こうし)
林弘高(穎右の叔父・吉本興業東京支配人)坂口黒田 有(くろだ・たもつ)

「ブギウギ」の福來スズ子と村山愛助

趣里(しゅり)プロフィール
本名:水谷 趣里(みずたに しゅり)
生年月日:1990年9月21日(33歳)
出身地:東京都
身長:158cm
血液型:O型
父親:水谷豊
母親:伊藤蘭
出身校:日本大学芸術学部演劇学科を中退
※15歳の時:イギリスバレエ学校へバレエ留学するが、怪我のため帰国
2011年:女優デビュー
所属:トップコート

水上 恒司プロフィール
本名:水上 恒司(みずかみ こうし)
旧芸名:岡田 健史(おかだ けんし)
生年月日: 1999年5月12日(24歳)
出身地:福岡県福岡市東区
身長 :178 cm
血液型:O型
2018年10月:テレビドラマ『中学聖日記』(TBS)俳優デビュー
事務所:合同会社HAKU(業務提携)

村山愛助の話題の部屋がヲタクと話題>>

NHK朝ドラ「わろてんか」では吉本穎右の母「吉本せい」の物語でした。
吉本せい:てん役(葵わかな)
吉本穎右:隼也役(成田凌)

笠置シヅ子と吉本穎右の年表

出会いからわずか4年という短い期間ですが、深く濃い時間をお二人は過ごしたのかと思います。

1914年8月25日笠置シヅ子生まれる
1923年10月26日吉本穎右生まれる
1943年6月シズ子(30歳)穎右(21歳)が出会う
1944年暮れ結婚を誓う
1945年5月大空襲後に同居
1945年8月終戦
1946年同居解消し、穎右は東京吉本に入社し、結婚への準備
1947年吉本穎右、大阪に帰省
1947年5月19日吉本穎右死去
1947年6月1日シズ子はエイ子出産
1947年10月笠置シヅ子の「東京ブギウギ」披露

吉本家

吉本穎右の両親である父・泰三、母・せいは、夫婦で1912年に寄席経営を始め、
翌年1913年に吉本興業の原型である「吉本興行部」を設立

1912年4月:夫妻は天満天神の裏門にあった寄席「第二文芸館」を買収し、寄席経営をはじめる
1913年:大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に吉本興業の原型である「吉本興行部」を設立
1924年:父・吉本泰三が逝去し、母・吉本せいが「吉本」を経営

穎右は当主として教育される

父の死・兄(長男)の死により、穎右が当主となる

父・泰三は、穎右が生まれた翌年の1924年に39歳という若さで亡くなり、吉本家の長男(泰之助)は1918年に穎右が生まれる前に亡くなっていたため、次男の穎右が、当主として家督を継がせ、教育されます。
また、穎右は叔父の林正之助から帝王学を学んでいました

母せいは、父・泰三の死後は、実質的な運営は自身の弟・林正之助さんに任せていましたが、穎右さんに後を継がせることを念頭に、吉本興行部(のちの吉本興業)の後継者として育てていました。

吉本穎右と笠置シヅ子の出会いから別れ

吉本穎右と笠置シヅ子は、太平洋戦争の真っ只中に運命の出会いが訪れます。

運命の出会い

1943(昭和18)年6月に、地方巡業で名古屋を訪れていた笠置シヅ子のもとに吉本穎右が訪ねてきます。

出会い:
1943年6月の名古屋の御園座の楽屋
笠置シヅ子(当時30歳)
吉本穎右(当時21歳)

現在の名古屋御園座↓

吉本穎右は、当時早稲田大学に通っていた穎右は東京から大阪への帰路で、名古屋に立ち寄ったりました。

穎右は名古屋の御園座に行き、「スイングの女王」の笠置シヅ子の大ファンだったようで、シヅ子を楽屋で出会ったそうです。

笠置シヅ子(当時30歳)の穎右の第一印象
・美眉秀麗な青年
・非常に心の優しい、フェミニスト

その後急接近

シズ子は出会いの翌日、神戸に行く予定があり、穎右も和歌山に行く予定があったため、同じ汽車に乗る約束をしたそうです。
駅では、穎右が先に着いていて、シズ子の荷物を運んでくれたりしたそうです。

最初はシズ子は穎右より9歳も年上で、穎右は吉本興業の家督という立場から、身分の違いなどでシズ子は弟のように思っていたそうですが、次第に恋愛に発展したそうです。

吉本に隠れての交際

結婚を誓う仲に

出会いから1年後(1944年暮れ)にシズ子と穎右は、結婚を誓うようになりますが、二人は吉本興業には見つからないように交際を続けていた。

1945年5月25日の東京大空襲により、シズ子、穎右の家が焼けてしまい、吉本興業の東京支配人(叔父の林弘高)が借家にしていたフランス人の家で複数人で同居を始めます。(同居といっても他にも同居人がいたそうです)

終戦を迎え同居を解消します。

そして、シズ子は舞台を再開し、・穎右は大学中退、東京吉本入社します。

なぜ、同居を解消したのか?

二人はこれまで吉本には隠れて恋愛関係を続けていましたが、穎右は叔父である林弘高が二人の仲に気付きます。
そのことから、結婚するまで一緒に暮らすことを控え、学生のままでは結婚できないという決意で同居を解消したようです。

ドラマとの違い

穎右(エイスケ)は学校を辞めて、吉本・東京本社に入社することで早く結婚したく、シズ子に「舞台をやめてくれ」と何度も言っていたそうです。

「エイスケさんが卒業を前にして、むざむざ学校をやめて実地に入られたのは、ひとつには早く結婚したかったからではなかったでしょうか。私はもちろん、そんなことをせびった覚えはありませんが、エイスケさんにしてみれば、お母さんや叔父さんたちに早くこの話を切り出す環境を工作して置きたかったのにちがいありません。だから、私に舞台をやめてくれと幾度もせッついていました。愛情のこまやかな人でしたから、焼き餅もあったでしょう(実は私も大変な焼き餅焼屋なんです)」

笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)

ドラマでは、愛助はスズ子に歌手を辞めて欲しくないと懇願してましたよね。やはり時代ですかね・・・

シズ子の妊娠

穎右の母・せいは穎右とシズ子の交際を反対していて、穎右を東京から大阪への帰省を切望していました。

1947年、穎右は大阪に戻ることになり、シズ子は琵琶湖まで見送りました。

その3ヶ月後、シズ子は妊娠したことに気づきました。

ドラマとの違い

シズ子は妊娠をエイスケに手紙で伝えると、神戸での公演中にエイスケはシズ子を訪ねてきたそうです。

その際に交わした会話で、エイスケは「入籍するとかえって破綻を招く」と語ったようです。

シズ子:「わては、あなたもお母さんもわても、生まれる子供も、みんなが幸福になれることを前提として一番適当な手段を講じたいと思います」

エイスケ:「僕もそう思う。僕たちの関係は、いろいろな点で即座に諒解(りょうかい)して貰(もら)おうと思うのは無理だ。その認識が不充分なうちに解決を迫れば、どうしても後に障(さわ)りが出てくる。そりゃ、僕があくまで頑張れば、僕の家出を恐れて承諾してくれるだろうが、そんな割り切れない気持ちで入籍すると却(かえ)って破綻を招くおそれがある」

笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)

ドラマでは、愛助は村山興業を辞める覚悟までしていましたが、史実は少し違いますね。

穎右の死

シズ子は結婚したら芸能界を引退しようと考えていました。

最後の舞台は、服部良一さんの提案にて始まった「ジャズ・カルメン」にしようと思っていました。

結婚後の家も購入し、穎右の帰りを待っていましたが、穎右がいつまでも戻ってこない。。。

シズ子の伝記によると、「エイスケは待てど暮らせど現れず」と語っています。

「このカルメンの公演中にエイスケさんは上京するはずでしたが、一日伸ばしに伸びて二月二十五日になるという手紙が来ました」
「熱海から大阪へ電話すると。エイスケさんは京都に用があって行っているから上京は三月二十五日ごろになるだろうとのことでした」
ところが待てど暮らせど現れず。四月になってから大阪吉本の営業部長前田米市さんから手紙が来ました。それによるとエイスケさんは財産整理で可成(かな)り忙しい思いをした挙句、申告の前夜は最後の締めくくりで徹夜し、風邪にかかって寝ているそうなのです」

笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)

そして、穎右は風邪をこじらせて悪化していました。様態は悪くなる一方で、危篤状態に陥っていました。

叔父である林正之助は、シズ子を穎右に最期に会わせようと、船をチャーターしたそうですが、穎右がシズ子の出産前の体を気遣って断ったそうです。

シズ子は穎右の様態を手紙で知り、すぐに大阪に向かおうと思ったが、出産日が近づいていることで断念せざるを得なかったようです。

その後まもなく、1948年5月19日に大阪西宮の吉本邸で、穎右は24歳の若さで亡くなられました。

1948年5月19日:肺結核により吉本穎右は24歳で亡くなる

亡くなる前日にシズ子に「今が生死の関頭」という電報が届いたそうです。

最後のお別れの前に、子供の顔を見せたかったでしょうね。

最後のお別れの前に、子供の顔を見せたかったでしょうね。

シズ子、女児を出産し未婚の母に

穎右の死後、半月経ち笠置シヅ子は女児を出産します。

1948年6月1日:笠置シズ子は穎右との娘を出産

シヅ子は、3150グラムの元気な女の子(娘・エイ子)を出産しました。当時ではとても大きな健康優良児だったようです。

穎右の残したもの
・三万円の入った通帳
・子供の名前の遺言
 男の子なら「穎造(えいぞう)」
 女の子なら「エイ子」

ドラマでは愛助の愛をとって「愛子」と名付けましたね。

また、出産から3ヶ月後の1947年9月に「東京ブギウギ」が誕生しました。

東京ブギウギ
・1947年9月:レコーディング
・1947年10月:日本劇場で披露
・1947年12月:日本映画「春の饗宴」劇中歌として披露
・1948年1月:レコードが発売

レコードが発売されると、大ヒットとなりました。

シズ子はその後、生涯独身を貫き、
穎右から初めてもらった名刺を肌身離さず身につけていたようです。

笠置シヅ子の詳しい生い立ちはこちら>>

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