三船美佳は母・喜多川美佳となぜ同じ名前?父・三船敏郎との関係は?

三船美佳さんの母・喜多川美佳さんで、同じ「美佳」という名前ですがなぜ?

また父・三船敏郎と三船美佳さん、母との関係はどうなのか? 調べてみました。

スポンサーリンク
目次

三船美佳は母・喜多川美佳さんとなぜ同じ名前?

三船美佳さんの母は女優の喜多川美佳さんですが、「美佳」という名前が同じですが、なぜなのか?

母親・喜多川美佳さんの本名は「大野照代」という名前で、女優の芸名が「美佳」のようです。

三船美佳さんは母の芸名・喜多川美佳「美佳」を命名されました

三船美佳さんと母・喜多川美佳さん

母・喜多川美佳さんとは?

喜多川 美佳(きたがわ みか)
本名:大野照代
生年月日:1948年10月28日
出身地:東京都品川区
1967年:北川美佳で女優デビュー
1969年:三船プロダクションの映画「赤毛」に初出演
1982年(33歳)娘・美佳を出産

芸能界デビューまでの道のり
品川区立芳水小→バレリーナ目指す
品川区立大崎中→陸上部
帝京女子高→ダンス部主将
高校3年、東宝ニューフェイス試験→CMモデル合格
1967年9月にユナイト映画のミス007に選出、西ドイツへ招待される
1967年、北川 美佳の芸名で、テレビドラマ 『平四郎危機一発』に出演し女優デビュー

喜多川美佳さんの若い頃

父・三船敏郎との関係は?

父親の三船敏郎さんと母・喜多川美佳さんは愛人関係で、その時に三船美佳さんが誕生されました。

誕生当初は認知されていなかったそうです。

三船敏郎さんの死後の遺言により1997年三船美佳さんが15歳で「認知」されました。

三船敏郎さんには本妻がいますが、離婚はされていなかったので、喜多川美佳さんとは内縁関係という状態だったそうです。

しかし、三船敏郎さんは、最終的には本妻の元に戻ることとなりました。

三船 敏郎(みふね としろう)
生年月日:1920年4月1日
没年日:1997年12月24日(77歳没)
出身地:中国山東省青島市で生まれる
1947年:映画『銀嶺の果て』デビュー
その後、『羅生門』『七人の侍』『用心棒』『赤ひげ』などで黒澤明とともに世界中に知れ渡る

三船敏郎さんの若い頃
1961年公開『用心棒』

時系列:三船敏郎さんの結婚から晩年まで

結婚・2人の息子が誕生

1950年に女優・吉峰幸子と結婚し、2人の息子が誕生します。

次男が10歳くらいになると、夫婦関係が冷め切ってきたそうです。

愛人・喜多川美佳と交際

1970年代から喜多川美佳と交際し、公に愛人関係を披露します。

三船美佳の誕生・内縁関係

1982年、喜多川美佳の娘・三船美佳が誕生します。

マスコミの前で親子3人の写真と撮らせていたようで内縁関係という状態だったようです。

なぜ離婚していないのか?

三船敏郎さんは離婚訴訟を起こしていたそうですが、本妻が応じなかったと言われています。

心筋梗塞で倒れ、愛人・喜多川美佳と別れる

1992年、心筋梗塞で倒れ介護状態になり、喜多川美佳との関係を解消します。

関係を解消する(別れる)ことには2つの説があるようです。

関係解消についての2つの説

・喜多川美佳さんが介護拒否説
喜多川美佳さんが介護するのを拒否し、三船敏郎さんを老人ホームに入居させた

・三船敏郎さんが本妻を選ぶ説
三船敏郎さんが病気になったことを機に本妻の元に自分から戻った

三船美佳さんは、父・三船敏郎さんとの生活は10歳(10年間)までのようです。

本妻の元に戻り、本妻が介護する

本妻・幸子さんが看病を希望し、老人ホームから引き取り介護することになります。

最終的に、本妻・幸子さんと夫婦円満な生活を送っていたそうです。

死後

1995年、妻・幸子さんが逝去し、
1997年12月に三船敏郎さんは死去されました。

死後、遺言により三船美佳さんは「三船敏郎の子」として認知されました。

三船敏郎さんと娘・三船美佳さんとは、10年間だけ一緒に生活をしていたことになりますが、色々と思い出があるようですね。

娘というより孫ですね・・

三船美佳さんの娘についてはこちらをご覧ください。

目次