年齢91歳の黒柳徹子さんは明快なトークは健在で今でも毎日テレビに出演されてますね。
そんな黒柳徹子さんのユニークな個性はどこから来ているのか?
黒柳徹子さんの家系図や先祖を調べると、芸術家と開業医が多く輩出しています。
家系図をわかりやすい図解でまとめました。
(※2024年9月現在)
【家系図】黒柳徹子の家族は?弟はバイオリニストで遠縁に北原白秋!
黒柳徹子さんのわかりやすい図解の家系図はこちらです。
黒柳徹子さんの家系は、多くの開業医や芸術家を輩出してきた歴史があります。
そのため、非常にユニークでクリエイティブな黒柳徹子さんが育まれた環境には深い影響があったのでしょう。
芸術家と開業医だらけですね!
アーティスト一家です。
続いては、黒柳徹子さんのプロフィールや家族についてまとめました。
黒柳徹子プロフィール
黒柳徹子さんは、テレビの歴史とともに歩んできた、まさに生ける伝説のような存在です。
91歳を超えてもなお、活力とエネルギーに満ち、トークの鋭さも全く衰えを見せません。
名前 黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ)
生年月日 1933年8月9日(91歳)※2024年9月現在
出身地 東京府(現・東京都)
職業 女優、タレント、テレビ司会者、エッセイスト
学歴 :東洋音楽学校(現・東京音楽大学)卒業
主な作品: 『窓ぎわのトットちゃん』
受賞歴 :ギネス世界記録(「同一司会者による最多放送回数」)、菊池寛賞、紫綬褒章 など
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黒柳徹子の学歴
黒柳徹子さんの多感な幼少時代は、小学校1年で退学するというエピソードもあります。
しかし、その後、トモエ学園に転校し個性的な教育を受け、黒柳徹子さんの才能が育まれたようです。
トモエ学園
東洋音楽学校(現・東京音楽大学)卒業
- 小学校: 問題児とされ、1年生で退学。
- 転校: トモエ学園に転校し、個性的な教育を受ける。
- 中学・高校: 香蘭女学校に進学。
- 大学: 東京音楽大学声楽科を卒業。
- 教育の影響: 自由な発想と表現力を育む。
黒柳徹子は、幼少期から音楽や演劇に興味を持ち、父親の音楽的影響を強く受けました。
特に映画『トスカ』を観てから、オペラへの情熱が芽生えましたようです。
黒柳徹子さんは、トモエ学園で自由な発想を育み、個性を尊重する教育を受けました。
この経験は、後の著書『窓ぎわのトットちゃん』で描かれ、教育の重要性を訴えています。
2024年7月6日プロジェクトX(NHK)で「トモエ学園」 の特集が放送されました。
黒柳徹子の経歴
キャリアの始まりは、1953年にNHK専属のテレビ女優第1号としてデビューします。
ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』での初主演を通じて名声を得ました。
その後『若い季節』や『夢であいましょう』などに人気番組に出演します。
『NHK紅白歌合戦』の紅組司会は6回もを務めるようになりました。
『徹子の部屋』がスタート
1976年にスタートした長寿番組『徹子の部屋』は、彼女の代表作となり、司会者としての才能が発揮されました。
1976年2月『徹子の部屋』初回放送
第一回目のゲストとして登場した森繁久彌さん↓
軽妙なトークと深い洞察力で多くのゲストとの対話を展開し、視聴者から愛される番組となりました。
- 1953年:NHK専属タレントとしてデビュー
- 1975年:テレビ番組『徹子の部屋』がスタートし、長寿番組に
- 1981年:エッセイ『窓ぎわのトットちゃん』を出版し、ベストセラーに
- 2006年:国連児童基金(ユニセフ)の親善大使に就任
- その他:女優、司会者として数多くのテレビ番組に出演し、世界的な名声を獲得
ギネス世界記録!
- ギネス世界記録
『徹子の部屋』: 同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者。
1976年に始まったテレビ朝日『徹子の部屋』は49年目を迎え、トーク番組の最多放送世界記録を更新中
100歳まで現役宣言した黒柳徹子=『第50回放送文化基金賞贈呈式』(2024年7月9日)↓
著名な作品
黒柳徹子さんの著書『窓ぎわのトットちゃん』は、教育に対する新しい視点を提供し、世界中で800万部以上のベストセラーとなりました。
『窓ぎわのトットちゃん』: 戦後最大のベストセラー。
この作品は、子どもたちの自由な発想を尊重する教育の重要性を訴えています。
社会貢献活動
黒柳徹子さんは、ユニセフ親善大使として、アフリカやアジアを訪問し、子どもたちの教育と健康を支援する活動に尽力しています。
- ユニセフ親善大使: 1984年から現在まで務める。
- 国際的活動: 世界中の子どもたちの支援に尽力。
- 教育支援: 自身の経験を活かし、教育の重要性を訴える。
- 文化交流: 日本文化の発信と国際交流を推進。
黒柳徹子さんの活動は、世界中の子どもたちに希望を与え続けています。
その他、パンダ保護活動や、社会福祉法人「トット基金」を設立し、身体障害者への支援活動を行っています。
100歳まで現役でお元気で頑張って欲しいですね!
父:黒柳守綱(くろやなぎ もりつな)
黒柳徹子さんの父である黒柳守綱さんは、音楽家であり、NHK交響楽団の前身、新交響楽団のコンサートマスターを務めた優れたヴァイオリニストでした。
黒柳守綱さんは第二次世界大戦中にシベリア抑留を経験し、戦後も音楽活動を通じて復興に尽力しました。
1983年に74歳で亡くなりましたが、彼の音楽への情熱は徹子さんにも影響を与えました。
黒柳守綱(くろやなぎ もりつな)
生年:1909年(推定)-1983年(74歳没)
職業:ヴァイオリニスト
経歴:
新交響楽団(現・NHK交響楽団)の首席ヴァイオリニスト
・戦時中にシベリア抑留を経験
・1949年に帰還後、東京交響楽団のコンサートマスターに就任
黒柳姓:
守綱は、もともと「田口守綱」という名前で生まれましたが、母方の黒柳家に養子に入る形で「黒柳」の姓を継ぐことになりました。
父方の家系
黒柳徹子さんの父方の祖父は医者であり、カトリック教会の長老を務めていました。
音楽や医療という伝統は、守綱さんから徹子さんへと受け継がれており、徹子さん自身もその文化的素養を育んできました。
母:黒柳朝(くろやなぎ ちょう)
母の黒柳朝さんはエッセイストであり、北海道空知郡滝川町で1910年9月6日に生まれました。
彼女は「チョッちゃん」という愛称で親しまれ、その愛情深い人柄と文学的才能は、徹子さんの創造力にも影響を与えました。朝さんの著書『チョッちゃんが行くわよ』はNHKでドラマ化されるほどの人気を誇り、彼女の作品は広く愛されています。
黒柳朝(くろやなぎ ちょう)
生年:1910年9月6日-2006年(96歳没)
出身地:北海道空知郡滝川町
職業:エッセイスト
著書
・デビュー作『チョッちゃんが行くわよ』(1982年)はドラマ化
・『チョッちゃん物語』(1993年)
『チョッちゃんが行くわよ』(1982年)
1987年NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』でドラマ化
(古村比呂さんがヒロイン)
『チョッちゃん物語』(1993年)
1996年に同名でアニメ映画化
「チョッちゃん」シリーズは他にも執筆されています。
母方の家系
黒柳徹子さんの母方の家系もまた名門です。松山藩の家臣であり、歴史的に名門の家系に属していました。
曽祖父の門山周智さんは山形県で開業医をしており、町会議員も務めるなど、地域社会にも大きな影響を与えた人物です。
母方の家系には、医者だけでなく、作家やエッセイストといった多彩な職業の人物が含まれており、徹子さんの多彩な才能のルーツがここにあるのかもしれません。
黒柳徹子の兄弟
黒柳徹子さんは第一子・長女で、弟3人と妹一人がいます。
長男:黒柳明児(めいじ)
徹子さんの兄。若くして敗血症で亡くなりました。
次男:黒柳紀明(のりあき)
徹子さんの弟で、ヴァイオリニストとしてNHK交響楽団に所属。音楽家としての道を歩んでいます。
黒柳 紀明(くろやなぎ のりあき)
ヴァイオリン奏者。
生年月日:1940年生まれ
出身地:東京都
桐朋女子高等学校音楽科卒、桐朋学園芸術短期大学中退
1964年ベルリン芸術大学留学
1971年NHK交響楽団入団
NHK交響楽団の元団員で、後にフロイデフィルハーモニーで第二ヴァイオリンのトップを担当
次女:黒柳眞理(まり)
徹子さんの妹。元バレリーナであり、後に美容師・エッセイストとしても活動しています。プロバレリーナとして活躍していましたが、足首の捻挫によりバレエを断念しました。
黒柳 眞理(くろやなぎ まり)
生年月日:1944年4月19日
出身地:東京都
北海道札幌市在住
幼少期からバレエを学び、プロバレリーナとして活動。
19歳の時に怪我を負いバレリーナの道を断念。
その後、美容師免許を取得し、現在は北海道で美容師として活躍
結婚・離婚
20歳で元プロ野球選手・井口礼司と結婚し、二人の子をもうけたが、39歳で離婚
三男:黒柳貴之(たかし)
徹子さんのもう一人の弟。両親が高齢の時に生まれた末っ子です。
1957年生まれ(推定)
父・守綱が49歳、母・朝が47歳の時に生まれた最年少の弟。
一般に公開された情報は少ないようです。
1998年には覚せい剤で逮捕されたと報道されましたが、黒柳家はこの件についてコメントしておらず、詳細は不明です。
黒柳徹子の親戚や遠縁
黒柳徹子さんの親戚・遠縁には芸術家を多く輩出しています。
黒柳徹子の伯父:田口修治さん
黒柳守綱(田口守綱)の兄
田口 修治(たぐち しゅうじ)(1905年 – 1956年3月)
田口修治は、ドキュメンタリー映画監督・プロデューサーとして活躍した人物です。
彼は1920年代から1950年代にかけて、特に戦後の日本において多くの映画を手がけ、シュウ・タグチ名義での活動も知られています。
彼の主要な作品には、戦争映画や企業PR映画、またはドキュメンタリーが多く含まれ、特に『漁る人々(Men who Fish)』や『柔道の妙技』などが評価されています。また、1953年のジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『アナタハン』では監督補佐を務めました。
遠縁
黒柳徹子さんの遠縁には著名な芸術家が多数おられます。
村山槐多(むらやま かいた): 大正時代の詩人・画家で、夭折の天才とも呼ばれます。彼の作品はエキセントリックで、彼の詩や絵画には独特の感性と激しい感情が表現されています。
山本鼎(やまもと かなえ): 明治から昭和初期にかけて活躍した日本の画家・版画家です。山本鼎は民衆芸術運動の推進者として知られ、特に農民美術運動を提唱し、日本の芸術教育や農村文化に大きな影響を与えました。
北原白秋(きたはら はくしゅう、1885年 – 1942年)
日本の詩人であり、作詞家としても知られています。彼は近代詩や童謡の分野で大きな影響を与え、詩歌の革新者とされています。
北原白秋
- 詩人としての活動: 北原白秋は、大正ロマン派の詩人として名を馳せ、「邪宗門」(1907年)や「思ひ出」(1908年)などの詩集を出版しました。その詩風は、官能的でありつつも、耽美的な要素が強く、従来の詩とは一線を画しています。
- 童謡作詞家としての活動: 白秋はまた、多くの童謡を作詞し、日本の子供たちに親しまれる作品を多く残しました。「この道」「ちんちん千鳥」などの作品が特に有名です。
まとめ
「【家系図】黒柳徹子の家族は?弟はバイオリニストで遠縁に北原白秋!」をまとめました。
黒柳徹子さんの家系図を調べると、芸術家と開業医ばかりの一家でした。
黒柳徹子さんはクリエイティブな環境で育ったのだと思います。
100歳まで現役でお元気で頑張って欲しいですね!
黒柳徹子と田川啓二の関係や出会いは?同居して養子縁組と噂!オネエ疑惑も!についての記事はこちらをご覧ください。
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