【ネタバレ注意】「虎に翼」猪爪 寅子(演・伊藤沙莉)のモデルは日本初の女性弁護士の三淵嘉子(みぶちよしこ)です。
戦前戦後の激動の時代、裁判官まで登りつめた三淵嘉子さんのキャリアアップはすごいものです。
家族・家系図・生涯、晩年までわかりやすくまとめました。
このページで分かること
・三淵嘉子さんの家族構成/家系図
・三淵嘉子さんの生い立ち/経歴/晩年まで
三淵嘉子の年表・家系図・家族構成
三淵嘉子さんは、日本初の女性弁護士の一人で裁判官も務めた方です。
その嘉子さんの生涯はどんなものだったのでしょうか。
年表
三淵嘉子さんの生い立ちから経歴、そして戦後の2度目の結婚、晩年までを年表にしました。
1914年11月13日 | シンガポールで生まれる |
1920年 | 日本に帰国し東京渋谷区で育つ |
1932年3月 | 東京女子師範学校附属高等女学校(お茶の水女子大学付属高等学校の前身)卒業 |
1932年4月 | 第4期生として明治大学専門部女子部法科に入学 |
1935年3月 | 明治大学専門部女子部法科を卒業 |
1935年4月 | 明治大学法学部に編入 |
1938年3月 | 明治大学法学部を卒業(総代を務めた) |
1938年11月1日 | 高等文官試験司法科に合格 |
1940年6月(26歳) | 弁護士登録(第二東京弁護士会所属) |
1940年7月 | 明治大学専門部女子部法科の助手 |
1941年11月5日(27歳) | 和田芳夫(明大卒)と結婚 |
1943年1日 | 第一子・長男・芳武が誕生 |
1944年6月 | 夫・和田芳夫が第二次世界大戦に召集 |
1944年8月 | 明治大学専門部女子部法科の助教授になる |
1945年 | 福島県坂下町へ疎開、その後両親の住む川崎に移住 |
1946年5月 | 終戦後、夫・和田芳夫が上海から引き上げ途中に長崎で病死 |
1947年3月 | 裁判官採用願を司法省に提出 裁判官としては採用されず、司法省民事部に入る |
1947年11月 | 明治大学専門部女子部法科の教授になる |
1949年6月(34歳) | 東京地裁民事部の判事補に任用 女性の裁判官としては2番目の採用 |
1952年 | 名古屋地方裁判所で初の女性判事 |
1956年8月(41歳) | 裁判官の三淵乾太郎と再婚 |
1956年 | 東京地裁判事となる |
1963年 | 東京家庭裁判所判事となる |
1972年(58歳) | 新潟家裁所長に就任・初の女性家庭裁判所長 |
1973年 | 浦和地裁の所長 |
1978年1月 | 横浜家裁所長 |
1979年11月13日 | 定年退官 |
1980年 | 再び弁護士となり、日本婦人法律家協会の会長や労働省男女平等問題専門家会議の座長を務めた |
1984年5月28日(69歳) | 骨癌のため69歳で逝去 |
三淵嘉子の家系図
三淵嘉子さんの家系図を図解でわかりやすくまとめました。
家族構成
三淵嘉子さんの家族構成は、ドラマ「虎に翼」とは少し異なります。
父:武藤(宮武)貞雄・・婿養子
母:武藤ノブ
長女:武藤嘉子(後に三淵嘉子さん)
長男:武藤一郎
次男:武藤輝彦
三男:武藤晟造
四男:武藤泰夫
1度目の結婚
1941年11月5日(27歳) | 和田芳夫(明大卒)と結婚 |
夫:和田芳夫(死別)
長男:和田芳武(後に三淵芳武)
2度目の結婚(再婚)
1956年8月(42歳) | 裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官だった三淵忠彦の子)と再婚 |
再婚相手:三淵乾太郎
乾太郎の連れ子
・長女:那珂
・次女:奈津
・三女:麻都
・長男:力
三淵(旧姓:武藤)嘉子さんプロフィール
三淵(旧姓:武藤)嘉子は明治大学法学部を卒業し、日本初の女性弁護士となるが、戦争ですべてを失うと、新たな思いを胸に差別のない司法を実践すべく裁判官になることを決意する。34歳で裁判官に就任後、アメリカで家庭裁判所を視察。帰国後は各地の家庭裁判所で社会的弱者に目を向け、精力的に活動した。
生年月日:1914年11月13日
没年日:1984年5月28日(69歳)
出身地:シンガポール
1916年:香川県丸亀市に転居
1932年3月:東京女子師範学校附属高等女学校卒業
(お茶の水女子大学付属高等学校の前身)
1932年4月:明治大学専門部女子部法科入学
1935年4月:明治大学法学部に編入
1938年3月:明治大学法学部卒業
1940年:弁護士登録
1941年:和田芳夫と結婚
1949年:裁判官となる
1952年:名古屋地方栽培所で判事となる
1956年:三淵乾太郎と再婚
1979年11月:定年退官
「虎に翼」キャスト・モデル表
実際のモデル | 役名 | 役者 | |
三淵嘉子 | 主人公 | 猪爪 寅子(いのつめともこ) | 伊藤 沙莉 |
武藤貞雄 | 父 | 猪爪 直言(いのつめ なおこと) | 岡部 たかし |
武藤ノブ | 母 | 猪爪 はる | 石田 ゆり子 |
和田芳夫 | 夫(死別) | 佐田 優三(さだ ゆうぞう) | 仲野 太賀 |
三淵乾太郎 | 夫(再婚) | 星航一(ほし・こういち) | 岡田将生 |
猪爪寅子の名前について>>
猪爪 寅子の同級生・花岡悟役を演じる岩田剛典さんの家系図はこちら>>
三淵嘉子さんの生涯について
三淵嘉子さんの生い立ちを幼少期から大学、そして弁護士、裁判官と当時の女性ではとても珍しく難しいことだったと思います。
そんな嘉子さんについて調べてみました。
幼少期から高校
嘉子は幼少期から聡明で、歌やダンスが得意な少女
父・武藤貞雄さんは当時では珍しく非常に民主的な考えを持ち、嘉子は自由に伸び伸びと育つ
1914年11月、三淵嘉子(旧姓武藤)さんは、父・武藤貞雄さんと母・ノブさんの長女としてシンガポールで生まれます。
嘉子が出生後に、父・貞雄さんがニューヨーク勤務となり、母と嘉子は父の故郷・香川県丸亀市で暮らすことになります。
そして、1920年、父・貞雄さんが帰国し、家族は東京渋谷区に転居します。
1914年11月13日:シンガポールで生まれる
5人兄弟の長女として生まれる
1914年11月:母の故郷・香川県丸亀市で暮らす
1920年:東京渋谷区に転居
名前「嘉子」の由来
シンガポールで生まれたので、新嘉坡(シンガポール)の漢字を取り「嘉子」となる
三淵嘉子さんの父親は?
武藤貞雄(むとうただお)旧姓宮武
- 生年月日:明治19年生まれ
- 学歴:丸亀中学から一高を経て東京帝大卒
- 台湾銀行勤務でシンガポール、ニューヨーク勤務
1920年:日本に帰国
父親の教育方針
父・武藤貞雄さんの教育
嘉子にいわゆる良妻賢母ではなく、職業婦人として自立する女性となるよう諭していた
「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな、男と同じやうに政治でも、経済でも理解できるようになれ、それには何か専門の仕事をもつ為の勉強をしなさい。医者になるか弁護士はどうか」と諭す
法律を勉強しようと決意
嘉子は職業婦人として自立する女性になるべく高校卒業後、法律を勉強しようと決意
小学校:東京府青山師範学校附属小学校
高校:東京女子師範学校附属高等女学校(お茶の水女子大学付属高等学校の前身)
1932年3月:東京女子師範学校附属高等女学校卒業
高校卒業後は、法律の世界に進みます。
明治大学で法律を学ぶ
弁護士を目指す嘉子は、当時女性が法律を学べる唯一の学校「明治大学専門部女子部法科」に第4期生として入学します。
明治大学専門部女子部法科(3年制)
女性が弁護士を目指して法律を学べる唯一の学校
・1929(昭和4)年に創設
・明治大学専門部女子部法科の卒業生は明治大学法学部への編入を認めている学校
父は嘉子の法律を学ぶことに賛成でしたが、良妻賢母になって欲しい母・ノブさんは猛反対されたようです。
1932年4月:明治大学専門部女子部法科に第4期生として入学
1935年3月:明治大学専門部女子部法科卒業
1935年4月:明治大学法学部に編入
1938年3月:明治大学法学部卒業
また、嘉子が法律を学んでいる時期に弁護士法改正があり、女性弁護士が認められたようです。
1933年5月
弁護士法改正が改正し女性弁護士が認可
弁護士資格は「男子」のみの規定が、「成年者」と改まり女性も弁護士になることが認められた
明治大学時代のことを嘉子は成績は女子学生は男子学生を凌ぐものがあったと語っています。
小学校卒業以来異性とは全く交渉のない当時の学生にとっては、お互いに関心はあっても口を利く勇気はなく、女子学生は常に教室の前の方に集団で席を取って授業を受け、授業外でも女子だけで行動する有様で、やはり女子学生は男子学生の勉学の場を拝借させて頂いているという感じだった。しかし・・・成績に関しては本家の男子学生を凌ぐものがあり、当時の明大の男子学生にとって女子学生の存在は競争刺激剤としての存在意義があったのではなかろうか。
お友達と甘味処へ通う
三淵嘉子さんが明治大学法学部時代にお友達と甘味処「銀座若松」に通っていたそうです。
三淵嘉子さんが学生時代に通っていた甘味処
「銀座若松」
明治27年創業
仲良し4人組
・嘉子
・小夜子
・文枝
・真知
弁護士になる
明治大学を卒業した1938年11月に嘉子は司法試験に合格しました。
1938年11月:高等文官試験司法科に合格
合格率は10パーセントで、東京帝国大学の出身者でも難しい狭き門を見事に通過しました。
1938年11月に司法省は、合格者242名、そのうち3名が女性と発表しました。
初の女性合格者3名
・三淵嘉子
・中田正子(嘉子と同級)
・久米愛(嘉子の1学年下)
弁護士女性3名の印象・イメージは?
三淵嘉子さん:丸ぽちゃでおしゃべり好きの明るい人
中田正子さん:すらりとした貴婦人タイプ
久米愛さん:スラックスでつかつか歩いてくるイメージ
出展元:「女性法曹のあけぼの 華やぐ女性たち」より引用
試験・合格エピソード
嘉子は膨大な暗記ノートを作って司法科高等試験に挑みました。嘉子は膨大な暗記ノートを作って司法科高等試験に挑みました。
「これで合格は間違いない」と思うほど自身に満ちあふれ、受験日の朝は意気揚々と試験に向かいます
しかし帰宅した時は憔悴して玄関で泣く崩れてしまいます。
困り果てた母は近所に住む知人の判事の野瀬高生を呼んできて、説得してもらいます。
野瀬は嘉子の答案内容を聞いて、「合格しているはずだ」と太鼓判を押します。
その言葉でようやく嘉子は泣き止んだそうです。
その後、能瀬の予想通り嘉子に「合格通知」が届いたそうです。
この女性初の快挙を新聞などのメディアから多く称賛されたそうです。
・『東京朝日新聞』第二面に「法服を彩る紅三点、女性の法律問題は女性が—、弁護士試験・初の栄冠」
・『法律新聞』第一面に「女弁護士登場」として、3人の写真と談話
その後、第二東京弁護士会での1年半の弁護士試補の修習を終え、晴れて1940年6月に弁護士登録しました。
1940年6月(嘉子26歳):弁護士登録(第二東京弁護士会所属)
女性弁護士がいよいよ誕生しました。
嘉子が弁護士になった翌年(1941年)に第二次世界大戦に突入しました。
そういう時期だったので、民事事件の数が大きく減少し弁護士としての活動はほとんどできなかったようで、母校の女子部法科の助手など指導をしていたようです。
結婚し、子供に恵まれる
嘉子は弁護士となった翌年に実家に書生として出入りしていた和田芳夫(明大卒)と結婚しました。
和田芳夫は、父親の中学時代の親友のいとこで、武藤家の自宅で書生をしながら明治大学の夜学部に通っていました。
1941年11月5日(嘉子27歳):実家(武藤家)の書生・和田芳夫(明大卒)と結婚
1943年1月:第一子の長男・芳武を出産
夫の召集・戦死
長男誕生の翌年(1944年)夫・和田芳夫さんが戦争に召集されてしまいます。
嘉子は、幼い息子を抱えながら、東京都港区青山にあった自宅が空襲で焼けたため、福島坂下町へ疎開するなど、苦しい生活を強いられたようです。
終戦後、夫・芳夫さんは、上海から引き上げ途中、長崎の陸軍病院で病死されました。
嘉子は夫の最期に会えなかったようです。
息子・芳武はまだ3歳と幼く、両親も他界し、嘉子は経済的な自立を考えるようになります。
裁判官になる
嘉子は熟慮したすえ、裁判官になろうと決意し、司法省に採用願いを提出しました。
1947年3月:「裁判官」採用願を司法省に提出
→採用されなかった
しかし、裁判官としての採用されず、坂野千里東京控訴院長から、
裁判官としての仕事を学ぶため暫くの間司法省に入って勉強するよう勧められ、司法省民事部に入ることになりました。
1947年6月:司法省民事部に勤務
最高裁判所発足時には最高裁民事局局付、家庭局創設時には初代の家庭局局付に就任
裁判官の採用願いを提出して2年後、ようやく裁判官となりました。
嘉子は女性裁判官では、第二号での採用となりました。
1949年6月(嘉子34歳):東京地裁民事部の判事補に任用され、裁判官となる
女性裁判官の採用の第一号は、1949年4月石渡満子(明治大学専門部女子部・法学部出身)と門上千恵子(九州帝大法文学部出身)でした。
ともに戦後に司法研修所で司法修習生として初めて男性と一緒に修習を受けた女性でした。
嘉子はその2ヶ月後に、裁判官となりました。
初の女性判事となる
裁判官になった嘉子は、6ヶ月にわたりアメリカで家庭裁判所を視察します。
そして帰国後、東京から名古屋へ転勤となり、名古屋地方裁判所で初の女性判事となりました。
1952年:名古屋地方裁判所で初の女性判事となる
その後は、東京地裁・同家裁に移り、民事裁判・少年審判を担当しました。
「私は男女が差別される時代に育ったせいか、建前論を主張するよりは女性が実績を上げて社会を納得させることが大切だ」という考えで仕事に邁進されていました。
教授も兼任
若手の指導にも力を注ぎ、1951(昭和26)年4月明治大学短期大学兼任教授、1965(昭和40)年4月から1972(昭和47)年まで同兼任講師を務めていました。
再婚相手・三淵乾太郎と出会う
嘉子は、東京で判事として活躍している時、最高裁調査官であった三淵乾太郎(みぶちかんたろう)と出会います。
三淵乾太郎は前妻を病気で亡くし、1男3女の4人の子供を育てていました。
二人の出会いは?
嘉子は三淵家に弔問した際に乾太郎さんと出会いました。
実は嘉子は乾太郎さんと出会う前に、父である三淵忠彦さんと先に出会っていて、忠彦さんの弔問に三淵家を訪れた時に出会ったそうです。
再婚はいつ?
1956年8月、嘉子41歳、乾太郎50歳の時に結婚(再婚)しました。
再婚後、嘉子は三淵姓となります。
イケメンですね!
夫・三淵乾太郎とは?
三淵乾太郎さんは、初代最高裁長官の長男で、自身も裁判官となりました。
前妻を病気で亡くし、前妻との間に4人の子ども(1男3女)がいます。
三淵乾太郎(みぶちかんたろう)
- 生年月日:1906年(明治39年)12月3日生まれ
嘉子の9つ上 - 没年:1985年8月22日(79歳没)
- 三淵家:会津藩末裔
- 父親:初代最高裁長官・三淵忠彦さん
乾太郎は長男 - 前妻:三淵祥子(病死)
- 子供:前妻との間には4人の子ども(1男3女)
- 1956年(50歳):嘉子と再婚
当時の役職:最高裁調査官
のち浦和地裁所長
再婚相手:三淵乾太郎の連れ子
・長女:那珂
・次女:奈津
・三女:麻都
・長男:力
三淵乾太郎と嘉子について詳しくはこちら>>
家裁所長に就任
1963年から1972年まで、東京家庭裁判所判事を務め、少年部では合計5000人もの少年少女の審判を担当しました。
そして1972年、新潟家庭裁判所長に任命され、初の女性家庭裁判所長となります。
1972年:新潟家庭裁判所長、初の女性家庭裁判所長
家裁所長になってからは、その後は数々の地裁の所長となります。
その後は、
・1973年11月:浦和地裁の所長
・1978年1月:横浜地裁の所長
嘉子は、家庭問題に深刻な悩みを抱えた人々の心を少しでも和ませようとの心遣いがあったようです。
薄汚れていた調停室の壁を明るい白に塗りかえ、壁に絵をかけ、カーテンを新調し、昼休みには廊下に静かな音楽を流す
嘉子は、65歳で定年退官します。
退官(65歳)
・1979年11月13日:定年退官
晩年・再び弁護士になる
1979年に退官後の翌年(1980年)再び弁護士となり、日本婦人法律家協会の会長や労働省男女平等問題専門家会議の座長を務めました。
1980年、再び弁護士として活動
・弁護士(第二東京弁護士会所属)を開業
・労働省男女平等問題専門家会議座長、東京家裁調停委員兼参与員、東京都人事委員会委員、労働省婦人少年問題審議会委員などの要職を歴任
晩年・小田原の三淵邸・甘柑荘(かんかんそう)で過ごす
神奈川県小田原の三淵邸・甘柑荘(かんかんそう)で、嘉子と夫・三淵乾太郎さんは晩年過ごしました。
晩年は、家族で旅行やマージャンを楽しんでいたそうです。
甘柑荘(かんかんそう)
住所:神奈川県小田原市板橋822
- 夫・三淵乾太郎さんの父、三淵忠彦さん(初代最高裁判所長官)が、昭和初期に別荘として建てた近代数奇屋風住宅
- 甘柑荘の呼び名は、庭に植えられた密柑(みかん)や檸檬(レモン)、金柑(きんかん)などに由来
- 神奈川県小田原市にあり、ご子孫の方が保存する歴史ある建物
- 特別公開時にはお茶席が設けられる
穏やかな晩年生活もつかの間、1982年、嘉子は癌が見つかってしまいました。
癌は全身に転移しており凄まじい闘病生活の末、1984年69歳で逝去されました。
1984年5月28日午後8時15分、骨癌のため69歳で死去しました。
葬儀は東京港区・青山葬儀場で2000人近くの方が参列したそうです。
夫・三淵乾太郎は嘉子が亡くなった翌年(1985年)に亡くなられました。
嘉子の墓所は、甘柑荘の真裏にある「霊寿院」の三淵家の墓と、嘉子の実家・香川県丸亀市の「本行寺」(前夫・和田芳夫の墓)に分骨されています。
「虎に翼」の主人公のモデル、三淵嘉子さんの生涯を調べましたが、戦前戦後と時代の変化に翻弄されつつもたくましく弁護士・裁判官として女性のキャリアを築いた第一人者です。
最後までご覧いただきましてありがとうございました。
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