【ネタバレ注意】NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』の朝田のぶ(今田美桜)のモデルの人物・小松暢(のぶ)さんの生い立ちを調査!
2度の結婚、夫との出会い別れ、波乱万丈の人生とは?
美人と評判の小松暢さんの実際の写真は…..美人です!
小松暢さんの幼少期、女学校時代から結婚、そして晩年まで紹介します。
また、家族構成の一覧もまとめました。
小松暢の生い立ち年表・家族構成
アンパンマンの生みの親・やなせたかしさんを支え続けた女性、小松暢さん。

名前:小松 暢(こまつ のぶ)
旧姓:池田暢 → 小松暢 → やなせ暢(戸籍名は非公表)
生年:1918年
死没:1993年11月22日(75歳没)
出身地:大阪府
愛称:「ハチキンおのぶ」「韋駄天おのぶ」
最終学歴:旧制阿部野高等女学校(現・大阪府立阿倍野高等学校)
職業:記者、編集者
配偶者:小松総一郎(1939年~1946年)、やなせたかし(1947年~1993年)
2025年春からはNHK朝ドラ「あんぱん」で描かれる彼女の人生は、戦前から戦後の激動の時代を生き抜いた波乱に満ちたものでした。
小松 暢さんは美人!
写真でもわかるように小松 暢さんはとても美人だったようです。
夫のやなせたかしさんによると、
外面は美人でかよわそうに見えるようですが、とても活発な女性だったようで、そこに惹かれたそうです。
やなせによると暢は「美少女タイプ」で「一見色白でかよわそうに見える」が「体育会系の硬派」。雷が鳴ると「もっと鳴れ!」と喜び、広告の集金で舐めた態度をとる相手にハンドバックを投げつけて「きちんと払いなさいよ」と啖呵を切る暢の姿を見て、やなせはすっかり好きになってしまった。暢の姿はまさに「ハチキン(土佐弁で男勝りの女性のこと)」である。
Yahoonewsより
好奇心旺盛で行動力あふれる「ハチキンおのぶ」こと小松暢さんの家族構成や生い立ち、そして運命の再婚について、ご紹介します。

ドキンちゃんのモデル!
小松 暢さんはアンパンマンの「ドキンちゃん」のモデルとも言われています。

「彼女は、あの『アンパンマン』に登場する『ドキンちゃん』のモデルと言われています。いつも好奇心に目を輝かせ、『おなかがすいた~!』というのが口癖のチャーミングな妖精です」
nikkansportsより

美人でスポーツ万能、そして意志が強く活発な女性だったんですね!
ホントにチャーミングなドキンちゃんですね!
小松暢の生い立ち年表
年 | 出来事 |
---|---|
1918年 | 大阪市で誕生(出生名:池田暢) |
1927年 | 父・池田鴻志が39歳で死去 |
1936年頃 | 旧制阿部野高等女学校(現大阪府立阿倍野高等女学校)卒業 |
1938年 | 上京後、日本郵船勤務の小松総一郎と結婚 |
1945年 | 終戦を高知で迎える |
1946年 | 夫の小松総一郎が病死。高知新聞社に入社、同社初の女性記者となる |
1946年 | 高知新聞社でやなせたかしと出会う |
1947年 | やなせたかしと再婚し上京 |
1988年 | 乳がんが見つかり、闘病生活を開始 |
1993年11月22日 | 75歳で逝去 |
小松暢の家族構成
続柄 | 氏名 | 備考 |
---|---|---|
父 | 池田鴻志 | 鈴木商店勤務、高知県安芸市出身、1885年生まれ、1927年没(39歳) |
母 | 池田(名前不詳) | 詳細不明 |
本人 | 池田暢→小松暢→やなせ暢 | 1918年生まれ、1993年11月22日没(75歳) |
1人目の夫 | 小松総一郎 | 日本郵船勤務、高知出身、1912年生まれ(小松暢より6歳年上)、1946年没 |
2人目の夫 | やなせたかし | 漫画家、1919年生まれ(小松暢より1歳年下)、2013年没(94歳) |
子供 | なし | やなせ夫妻にとって「アンパンマン」が子供同然だった |
小松暢さんの兄弟については、明らかになっていないようです。
小松暢の幼少期:実家は裕福な家庭!
小松暢さん
1918年大阪生まれ
父は商社マンで裕福
小松暢さんは1918年(大正7年)、大阪市生まれながら父の故郷・高知県安芸市との縁が深い家庭で育ちました。
父・鴻志さんは日本最大の総合商社「鈴木商店」に勤める敏腕商社マンで、家庭は裕福だったようです。
父・池田鴻志さん
高知県安芸市出身のエリートビジネスマン
大阪の関西法律学校(現在の関西大学の前身)へ進学するという、当時としては高い教育を受けていました。卒業後は日本最大の総合商社だった鈴木商店に入社し、優秀な商社マンとして活躍しました。
幼い頃から毛皮のコートを着るなど、モダンな少女として育ち、当時としては珍しい海外勤務もあった父親の影響もあり、小松暢さんは幼い頃から好奇心旺盛で活発な性格だったと言われています。
父の死
暢さんは当時9歳のころ、鴻志さんは1927年にわずか39歳という若さで亡くなられました。
短い期間ながらも父から受け継いだ先進的な価値観や好奇心旺盛な性格は、暢さんの人生に大きな力となったようです。
父の死後も、大阪で母と共に大阪で生活を続けています。
小松暢の女学校時代:韋駄天(いだてん)おのぶの異名!
旧制阿部野高等女学校(現大阪府立阿倍野高等女学校)に通う
旧制阿部野高等女学校(現:大阪府立阿倍野高校)では「韋駄天(いだてん)おのぶ」の異名を持つ短距離ランナーとして活躍。
運動も学業もトップでリーダー的存在!
この頃からすでに、負けず嫌いな一面が際立っていた暢さん。
元同級生の話によると、男子生徒からも一目置かれる存在だったそうです。
勉強にも熱心で、当時はまだ女子に高等教育がそれほど求められていなかった時代にもかかわらず、学ぶことへの好奇心がとにかく強かったとか。
教師や友人たちからの信頼も厚く、ときにはリーダーシップを発揮することも。悩みを抱えた友人に的確なアドバイスをするなど、頼れる存在だったようです。
さらに文章の才能もあり、作文コンテストで入賞した経験も。
女学校時代の暢さんは、まさに充実した青春を送っていたようですね。



お父様が亡くなられたという悲しいこともありましたが、青春を謳歌していたようですね!
小松暢の最初の夫と結婚・別れ
暢さんは、1936年ころ女学校を卒業し、その後東京へ上京。
東京で高知出身で日本郵船に勤める6歳年上の小松総一郎と出会う!
そして….
しかし、新婚間もなく第二次世界大戦が勃発。
小松総一郎は一等機関士として召集され、戦地へ赴くことになりました。夫が出征している間、暢さんは高知で終戦を迎えます。
終戦後、総一郎さんは無事に帰還しましたが、残念ながら程なくして病死してしまいました。
- 名前:小松総一郎(こまつ そういちろう)
- 生年月日:1912年(明治45年)
- 出身地:高知
- 職業:日本郵船株式会社勤務
- 結婚:1939年に小松暢と結婚
- 没年:1946年(戦後に帰還後、病死)
夫の死後、高知新聞入社
夫を失った暢さんは、故郷の高知で1946年に高知新聞社に入社します。
1946年、女性記者第1号として入社
同社が31人の応募者から採用した初の女性記者2人のうちの1人という、当時としては画期的な立場でした。
小松暢とやなせたかしと再婚!
暢さんは『月刊高知』創刊メンバーとして辣腕をふるい女性記者として活躍していました。
そんななか….
1946年やなせたかしさんと出会う
1946年当時
・小松暢(27-28歳)
・やなせたかし(27歳)
暢さんは、数ヶ月後に入社してきたやなせたかしさんの才能を見抜きいていたようで、彼の原稿を優先的に採用するなどサポート役に回りました。
やなせたかしの一目惚れ!
やなせさんは小松暢さんの前の席にすわっていたようです。
そんなやなせたかしさんは、暢さんのことを出会ってすぐに好きになったそうです!
当時27歳だったやなせさんは、絵の才能こそあったものの、まだ目立った成功には恵まれていませんでした。それでも、夢を抱き、芸術への熱い情熱を秘めた青年だったそうです。
そんなやなせさんの可能性をいち早く見抜いたのが、暢さん。
そして、暢さんはやなせさんの夢を応援しようと心を決めたのです。
高知から東京へ
二人は高知新聞社を辞めて、東京へ!
小松暢さんは「代議士の秘書になる」という理由で退社して上京したとか。
暢さんが上京した1年後にやなせさんも上京し、暢さんの下宿先に転がり込んだといいます。
その下宿は子供のベッドルーム程度の小さな部屋で、2人の全財産はやなせさんの軍隊用の毛布だけだったとか。



行動力がすごいです!
再婚(2度目の結婚)


2人は1947年に結婚
小松暢(29歳)
やなせたかし(28歳)
やなせさんが「漫画家としてやっていけるのか」と不安を抱えていた頃、暢さんは「なんとかなるわ。お金がなければ私が働いて食べさせるから」と力強く励ましていたそうです。
結婚後、やなせたかしさんは三越百貨店に就職し、宣伝部でグラフィックデザインの仕事に就きました。
暢さんは、そんなやなせさんの創作活動をずっと陰で支え続け、やがてフリーのイラストレーターとして独立する際にも、大きな後押しをしたといいます。
のちにやなせさんは、
「彼女の支えがなければアンパンマンは生まれなかった」
と語っていて、やなせさんにとって妻・暢さんの存在がどれほど大きかったのかが伝わってきます。
結婚(再婚)を決めた理由は?
小松暢さん「彼の純粋さと芸術に対する真摯な姿勢に惹かれた」
やなせたかしさん「彼女がいなければ自分の人生はなかった」


名前:やなせたかし(本名:柳瀬嵩)
生年月日:1919年(大正8年)2月6日
没年月日:2013年10月13日(94歳)
出身地:高知県香美郡在所村(現在の高知県香美市香北町)
学歴:東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部デザイン学科)
職業:漫画家、絵本作家、詩人
代表作:「アンパンマン」シリーズ、「やさしいライオン」など
結婚:1947年に小松暢と結婚
- 卒業後:田辺製薬(現・田辺三菱製薬)宣伝部に就職
- 昭和21年(1946年)高知新聞の記者に就職
- 昭和22年(1947年)28歳:上京、三越宣伝部のグラフィックデザイナー
- 昭和28年(1953年)、34歳:漫画家としての収入が給料を上回ったことで三越を退職。
専業漫画家となる。
卒業後、田辺製薬(現・田辺三菱製薬)宣伝部に入社したやなせたかしさん↓


1953年、新宿荒木町の新居で妻の暢さんとやなせたかしさん↓




だれも知らないアンパンマン やなせたかし初期作品集(やなせたかし)
やなせたかし自身が1976~82年にかけて「月刊いちごえほん」で連載されていた『アンパンマン』を集成した“超初期作品集”↓
子供
暢さんとやなせたかしの間に子供はいませんでした。
やなせさんは「アンパンマンが自分の子供」と語っており、2人にとってアンパンマンは特別な存在だったようですね。





世界の子供に夢と希望を与えていましたね!
小松暢の晩年


小松暢さんは1988年に乳がんが発覚しました。
当時すでに70歳を超えていましたが、闘病生活を送りながらも夫・やなせたかしさんの創作活動を支え続けたといわれています。
抗がん剤治療などを受けながら、体調が良い日は家事や夫のサポートをするなど、穏やかながらも芯のある日々を過ごしていたようです。
1993年11月22日、小松暢さんは75歳で逝去されました。
自宅で静かに亡くなったとされており、夫・やなせたかしさんが最期を看取ったと言われています。
やなせさんはその後も暢さんのことを「本当に素晴らしい伴侶だった」と語っており、作品の中でも彼女の存在を大切にしていました。
1988年:乳がんが見つかり、闘病生活を開始
1993年:75歳で逝去



最後まで夫のやなせたかしさんの献身的な看病をされていたようですね。とても愛し合っていた夫婦ですね。
まとめ
【小松暢の生い立ち!再婚や夫との出会いは?晩年までの年表】についてまとめました。
小松暢の人生は、戦争と再婚という二つの大きな転機に彩られました。
年 | 出来事 |
---|---|
1918年 | 大阪市で誕生(出生名:池田暢) |
1927年 | 父・池田鴻志が39歳で死去 |
1936年頃 | 旧制阿部野高等女学校(現大阪府立阿倍野高等女学校)卒業 |
1938年 | 上京後、日本郵船勤務の小松総一郎と結婚 |
1945年 | 終戦を高知で迎える |
1946年 | 夫の小松総一郎が病死。高知新聞社に入社、同社初の女性記者となる |
1946年 | 高知新聞社でやなせたかしと出会う |
1947年 | やなせたかしと再婚し上京 |
1988年 | 乳がんが見つかり、闘病生活を開始 |
1993年11月22日 | 75歳で逝去 |
最初の夫との別れを経て、やなせたかしとの出会いが「アンパンマン」誕生の原動力となった事実は、まさに運命的。
女性記者の先駆者としてのキャリアと、妻としての献身的な支え方が、戦後日本における新しい女性像を体現していました。
最後までご覧いただきましてありがとうございました。
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