2024年11月15日、三笠宮家百合子さまが薨去され、三笠宮家の当主継承が注目されます。
しかし、母・三笠宮家信子さまと娘・彬子さまは20年以上絶縁状態というご関係のようです。
なぜこのような確執となったのか、いつごろから絶縁状態なのかかとめました。
【なぜ】三笠宮家信子さまと娘・彬子さまの確執の理由は?
母・三笠宮家信子さまと娘・彬子さまは長きにわたる確執が取り出されてています。
その原因には父・寛仁親王が深く関係しています。
寛仁親王と信子さまの関係が不仲だったことで、信子さまと娘・彬子さまの確執が生じたようです。
寬仁親王妃信子(ともひとしんのうひ のぶこ)
旧姓:麻生信子
生年月日:1955年4月9日
出身地:東京都渋谷区松濤
皇族・寬仁親王の妃
身位:親王妃
兄:麻生太郎
松濤幼稚園・聖心女子学院初等科・中等科・英国インデペンデント・スクール、ロスリンハウス・コレッジ
1980年11月7日(25歳):寬仁親王と成婚
1981年12月20日:長女彬子女王出産
1983年10月25日:次女瑶子女王出産
彬子女王(あきこじょおう)
生年月日:1981年12月20日
続柄 寬仁親王第1女子
身位 女王
敬称 殿下
お印 雪
父親 寬仁親王
母親 寬仁親王妃信子
確執前の2002年信子さまと彬子女王のお姿↓
母・信子さまと娘・彬子さまの確執の原因でもある寛仁親王と信子さまの関係から見てみましょう。
寛仁親王と三笠宮家信子さまの不仲
故・寛仁親王と信子さまとは不仲だったとされています。
不仲の原因は、寛仁親王のアルコール依存症がきっかけ
寬仁親王(ともひとしんのう)
生年月日:1946年1月5日〜2012年6月6日(66歳没)
父親 三笠宮崇仁親王
母親 崇仁親王妃百合子
栄典 大勲位
「ヒゲの殿下」の愛称リスト
聖心女子学院幼稚園、学習院初等科、学習院中・高等科を経て学習院大学法学部政治学科卒業
1970年:イギリスオックスフォード大学モードリン・コレッジに留学(2年半)
1980年11月(34歳):信子様(旧姓麻生信子)と成婚
1980年11月、8年越しの恋を実らせて結婚された寬仁さまと信子さま。
1990年暮れに寬仁さまに食道がんが見つかってからは、信子さまが献身的に看病されるなど、仲睦まじい夫婦のお姿でした。
《宮さまが“うまい”とおっしゃってくださるひと言がいちばん嬉しゅうございました》と献身的に食事作りをされていたそうです。
しかし、寛仁親王が何度も癌を発症され、お酒の量も増えてきて夫婦仲に亀裂が出来てきたそうです。
「お二人の関係が、こじれてしまったのはアルコール依存症の治療が原因だったのです。
その当時は、まだ病名を公表していませんでした。信子さまは、がんの検査だと寬仁さまに偽って、入院していただいたようですが、実際は依存症治療のための入院であることを知った寬仁さまが激怒されたのです」
そして、夫婦ゲンカも多くなり、信子さまは、2004年から別居生活を始められました。
別居の理由は、信子さまは、寛仁親王のDVやアルコール依存症から逃れるために別居を選んだとされています。
寛仁親王はこの頃から、信子さまとの離婚も考えていたそうです。
〈真剣に離婚を考え、信子妃殿下の臣籍降下まで考えていた〉
母・信子さまと娘・彬子さまの確執はいつから?
2004年からの信子さまの別居生活で、娘・彬子さま、瑶子さまとの確執が始まる
母・信子さまの別居するころから、父・寛仁親王のほうについた娘たちと母の対立が始まったとされています。
彬子さまは(2015年7月)文藝春秋に手記されていました。
《最近ある雑誌にも書かれていたけれど、寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない》
女性自身より
皇室内のことで、メディアにこのような発言をするということは、よっぽどのことでしょうね・・・
確執が悪化する
その後、信子さまと彬子さまの確執はさらに深まります。
危篤状態の寬仁さまに会うため、信子さまは何日もタクシーで病院に通われたのですが。
“ご家族の意向”により立ち会うことは許されなかったようです。
そして2012年6月6日に寛仁親王が薨去されました。
寛仁親王の葬儀の喪主を務めたのは彬子女王で、信子さまは参列されていません。
寬仁親王家の消滅問題でさらに亀裂を生む!
彬子さまが寬仁さまの葬儀の喪主を務められたのだが、この直後に浮上したのが寬仁親王家の当主問題でした。
寬仁さまの薨去後に、寬仁さまのご両親である三笠宮崇仁さまと百合子さまの後押しもあり、
彬子さまが親王家の当主の座に就かれることになったのですが、信子さまが絶対に認めようとされず、実現しなかったようです。
その結果、寬仁親王家は廃止となり、信子さま、彬子さま、瑶子さまは三笠宮家となったそうです。
「生前、寬仁さまも彬子さまが跡を継がれることを望んでいられたため、宮内庁は信子さまが長期の病気療養中という理由で、彬子さまが当主になられることを特例で認めるスタンスだったそうです。
しかし、信子さまが“慣例では親王妃だった私が当主になることになっています”と主張されたため、当主が決まらず、結果として寬仁親王家は廃止となり、信子さま、彬子さま、そして次女・瑶子さま(31才)は三笠宮家に合流されることとなったのです」
彬子さまにとっては、お父さまのお名前を冠した宮家が、“母の反対により”消滅してしまったということで、辛いお気持ちだったそうです。
さらに、2024年11月15日、三笠宮家の当主の崇仁親王妃百合子さま(101歳没)が薨去されました。
喪主は孫の彬子さまとなりました。
今後、三笠宮家の当主問題で母・信子さまと娘・彬子さまの関係がさらに悪化されそうです。
信子さまの13億円の別宅に疑問の声が!
2024年9月、信子さまの別居宅を13億円で改修工事されるという報道がありました。
信子さまは旧宮内庁長官公邸にお住まいですが、2025年から2年かけて改修工事が予定されるようです。
その改修工事費用がなんと約13億円!
“母と娘が不仲でいっしょに住めないから、別居宅の改修に13億円の税金を投入する”ということで疑問の声があがっているそうです。
「信子さまのお一人暮らしは、表向きは“ご療養のため”とされています。旧宮内庁長官公邸と隣接する旧侍従長公邸との一体化、老朽化した設備の更新、利便性の向上やバリアフリー化を進めるとのことで、約13億円が費やされます。しかし、“母と娘が不仲でいっしょに住めないから、別居宅の改修に13億円の税金を投入する”という事態に宮内庁内でも疑問の声が上がっています」
女性自身より
公費で13億円では疑問の声があがりますよね。
母娘の関係はもう修復不可能のようですね・・・
まとめ
【なぜ】三笠宮家信子さまと娘・彬子さまの確執はいつから?をまとめました。
母・信子さまと娘・彬子さまは、2004年ころの信子さまが別居されてから確執が生まれています。
その後、確執は深くなり修復困難な状況のようです。
最後までご覧いただきましてありがとうございました。
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